文芸春秋
2020年01月14日
相対化絶対化
先日雑誌を買いに書店に行った時、文芸春秋のネイサン・チェン選手のインタビュー記事を(立ち読みで申し訳ないのですが)少し読みました。
その記事が早々と文芸春秋デジタルに掲載されていたので、羽生選手に関連する部分だけ抜粋して、感じたことを書いてみました。
ユヅはプッシュしてくれる「強いライバル」
昨年12月のGPファイナルは、僕にとっても特別な戦いでした。あの大舞台でユヅ(羽生結弦)と戦う機会に恵まれたのは、3シーズンぶりのことだったからです。
フリーの演技終了後の記者会見でユヅ自身が言っていましたけど、自分をプッシュしてくれる「強いライバル」がいることはすごく健全なことだし、自分自身がより高い地点を目指すための素晴らしいモチベーションになります。逆に、こうした緊張感がないと競技自体が、少し退屈なものになってしまうでしょうね。
僕らより上の世代のユヅが、こうして、未だに男子フィギュアスケート界全体をプッシュしてくれているのは、とてもありがたいし、本当に感謝すべきことだと思っています。
ユヅが出場したことによって、大会全体のレベルが上がったのは間違いないでしょう。ユヅがいるだけで、会場の空気が変わるんです。彼が、タイトルを取り戻すために全力を尽くしてくるであろうことはわかっていたので、僕も他の大会とはまた違った意識を持って、この大会に挑みました。そのプレッシャーは僕にとってすごくエキサイティングだったし、より大会を充実したものにしてくれたと思います。
ネイサン選手は、羽生選手のいる試合ではその他の試合とは全然違ったスタンスで臨んできますね。
今シーズンのGPシリーズは一体何だったのでしょうか。
計算できるのはいいことだし、必要な事でもあるけれど、あまりあからさまなのはどうでしょうか。ラファエルコーチの助言もあるのでしょうが、常にベストを尽くす羽生選手との違いを感じます。相手がだれであれ、ベストを尽くして戦うのが他の選手へのリスペクトであり、礼儀だと思いますが。
(中略)
スケートより重要なこと
イェール大学で勉強をしはじめてから、新しい世界が開けました。世の中はスケートが全てではないという当たり前の現実を実感し、気持ちが楽になった部分もあります。学生のおよそ80%はフィギュアスケートがどういうスポーツなのか全く知らない。当然僕のことも知らないし、オリンピックを連覇したあのユヅのことすら知らない学生も多い。
スケートは長い間自分の人生の中心にあったことなのに、世の中の人々の多くは興味がないという現実に、最初はちょっとびっくりしました。大学がある種の社会の縮図だとすれば、アメリカ社会全体の平均も大体そんなものですよね。でもだからといって、自分の中でスケートに対する想いが小さくなったわけではありません。
世の中にはスケートよりももっと重要なことに取り組んで、大変な苦労を日々している人も大勢いるという現実を改めて実感したんです。自分ももっと人間的に幅広く成長したい。そして将来的には、広い意味で社会に貢献したいという気持ちを持つようになりました。ネイサン選手の言っていることは当たり前のことです。
世の中にはスケートよりも重要なことはいくらでもあります。
しかし、何が重要かは人により千差万別であり、重要さのランキングが付けられるわけではありません。
社会の中でフィギュアスケートに関心を持っている人がどのくらいいるのか分かりませんが、少なくともアメリカよりは日本の方がフィギュアスケートに関する認知度は高いと思います。それは日本で行われるアイスショーとアメリカで行われるアイスショーの劇的なまでの観客の入りからもはっきりしています。
アメリカでネイサン選手を知らない人が80%だとしたら、日本では羽生選手を知っている人が80%くらい、の差はあるのではないでしょうか。
アメリカという国は基本的に自分の国にしか興味はないので、アメリカ人の80%が日本人フィギュアスケーターの羽生結弦を知らなくても不思議はありません。
従って、ネイサン選手のアメリカでの認知度をもって、日本での羽生選手の認知度と比較する事には意味がないでしょう。
おそらくネイサン選手がオリンピックで連続2回金メダルを取れば、ネイサン選手のアメリカでの認知度も50%くらいには上がるのではないでしょうか。
仮にそのような場合に、ネイサン選手は、どのような形で社会に貢献したいと思うのでしょうか。
それも聞いてみたかったです。
ユヅのようにはできない
そういう変化のためかもしれませんが、フィギュアの試合に向かう気持ちも以前とは少し変わってきました。もちろんベストな演技を見せたいと常に思っていますが、たとえミスをしてしまっても「この世の終わりではない」という気持ちが根底に芽生えるようになったのです。
以前はもっと、絶対に勝ちたいという気持ちを前面に出して試合に向かっていました。ユヅはまさにそういうタイプの選手で「絶対に勝ちたい」という気持ちを前面に出すことで驚くような力を出すことができるのです。
しかし、僕はそうやって自分を奮い立たせるということが、性格的に向いていないと最近わかってきたのです(笑)。闘志を前面に出せば出すほど、気持ちが空回りして身体をうまくコントロールすることが難しくなるのです。だから氷の上で演技をしている間は、その一瞬、一瞬を存分に味わって、何が起きようとも楽しむ気持ちを忘れないように滑るようにしました。僕の場合はそれで大体うまくいくようになりました。
人生全体から見れば、アスリートが競技に出場できる期間というのは限られたものです。だからこそ、一つ一つを大事な体験として楽しみ、自分が成長していく糧に使いたいと思うようになったのです。
ネイサン選手の、ミスをしてしまっても「この世の終わりではない」という気持ちと、羽生選手の「絶対に勝ちたい」、「負けは死も同然」という言葉が対比されて捉えられてしまいそうですが、羽生選手だって、なにもミスをしても「この世の終わり」だなんて少しも考えていないと思います。
ミスをしても、それによって負けることがあっても、次は絶対に勝ちたいという強い気持ちで「未来に向かって」行くのです。「この世の終わり」だと思ったら、未来に向かう気持ちは持てません。
その考え方の違いは、ネイサン選手が、フィギュアスケートを、自分の人生の中で相対化しているのに対して、羽生選手はフィギュアスケートを自分の目的として絶対化しているかの違いだと思います。
確かに現役フィギュアスケーターとして活躍できる期間は人生の中で短いし、その後の人生の方が圧倒的に長いわけですから、ネイサン選手のように将来は医者を目指すとか、科学者になりたいとか、色々なプランを用意して、その準備をしておくのは賢いことだと思います。
常に先を見ている羽生選手にも当然未来のプランはあるでしょう。
それを今明かすことはしないだけだと思います。
しかし今は、人生のその他のことを全てを排除してフィギュアスケーターとしての自分の生き方に200%を捧げて生きているのです。
一般的に言って、
物事を相対化すると、それは日常になり、
絶対化されたものは非日常となります。
私達が羽生選手の演技にこれほどまでに惹きつけられるのは、羽生選手がスケートに懸ける気持ちが絶対的なものであり、そこから受けるものが非日常的な何かであることも大きな要因だと私は感じています。
ネイサン選手がフィギュアスケートを「大事な体験として楽しみ、自分が成長していく糧に使いたい」というのも理解できますし、彼にとってはそれが正しい考え方なのでしょう。
しかし相対化されたものには神は宿らず、観ている私達もそれは敏感に感じ取ってしまうものではないでしょうか。
(中略)
最終ゴールは次の五輪
ユヅのクワドアクセルがどうなっていくか、また彼がどの4回転ジャンプを跳んでくるかにもよってきます。僕たちが互いに限界までプッシュし合っているのは、すごくエキサイティンぐ状況だと思います。会う回数を重ねるごとに、性格、背景、トレーニングについてなどお互いのことをよりよく理解するようになってきました。
今のところ、僕の競技スケート活動の最終ゴールは次の北京オリンピックだと思っています。オリンピックの前の年には、大学を休学し、競技に専心したいと思っていますが、スケジュール的にうまくいくかどうかはまだわかりません。
もちろんオリンピックで優勝できれば素晴らしいですが、必ずしも表彰台のトップに立つことだけが目標ではありません。それよりも、自分が誇りに思えるプログラムをSPとフリーの両方で滑りきることができたなら、僕はきっと満足してこのスポーツを後にすることができるだろうと思っています。
(中略)
だから僕は今のうちに、少しでも次の人生に移る準備を進めておく。その基礎となるものを今の内から築いておきたい。先が限られた競技人生に後悔は残したくない。一つ一つの大会を楽しむことが、僕にとって大切なことなのです。(完)
ネイサン選手はここで北京オリンピックまでで現役引退を示唆していますが、実際は結果がでなければ決定ではないようです。
でもやはり、「少しでも次の人生に移る準備を進め」ながら、とはっきり言われてしまうと、いささか白ける部分はないとは言えません。
まだ20歳であり、賢明でもあるネイサン選手なら、将来のことはスケート人生を完全燃焼してからでも勉学なりビジネスなり、なんでもできそうです。
今こういう風に未来のプランを語ることがいいのか悪いのか、いささか疑問にも感じました。
自分について多くを語らない羽生選手ですが、彼のフィギュアスケートに懸ける絶対的な情熱と愛を感じればこそ、
私達も羽生選手に絶対的で非日常的な愛を捧げられるのです
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2018年10月11日
コーチの誇りとなる
文芸春秋11月号の記事『羽生結弦は私の誇りです』を読みました。
2012年春に羽生選手がオーサーコーチの元に来てから2度のオリンピック金メダルを取り、そして現在に至るまでのエピソードを、コーチ自身の過去の経験を交えながら語っているという内容でした。
2012年のニースでの世界選手権の後にカナダに拠点を移したころ、「あともう少しでコントロールを失うギリギリのところで滑っているよう」な17歳の血気盛んな少年だった羽生選手の溢れる才能とエネルギーを見て、「その野性味を自分でコントロールできるように基礎をもっと強化していこうと」いう方針をトレーシーコーチと共に立てたそうです。
この記事の中で圧倒的に強い印象を受けたのはユヅとハビのピョンチャンオリンピックでの練習光景でした。
少しだけ引用させていただきます。
「確かフリーの日の公式練習のことでした。ハビとユヅが並んでエッジワークを見せたのです。
いつもこのクリケットクラブでグループでやっていることを、二人並んで揃ってやったんです。
あれは人に見せるためではなく、自分たちのためだったと思う。
私たちのところに戻ってきたとき、二人の間に、はっきりした結束の意識を感じました。厳しいプレッシャーに直面するときは、一人でも多くの仲間が必要なんです」
(中略)
「ジャッジたち全員が、ハビとユヅの美しいエッジワークを見ていたんです。だから私は、
『きみたちは素晴らしかった。おかげで、我々まで鼻高々だよ』
と言ったら、二人は相手の顔を見てハイファイブ(ハイタッチ)をしました。これまで多くの素晴らしい瞬間にコーチとして立ち会ってきたけれど、あの時ほど自分の生徒たちを誇りに思ったことはありませんでした」
読んでいて、その光景が目に浮かび、ジーンとしてしまいました。
「人に見せるためではなく、自分たちのため」、この日まで共に過ごした6年間のクリケットクラブでの練習と同じことをした。
ショートプログラムで1位と2位になっていた二人が、フリーの前日の練習で、翌日には最大のライバルとして戦う相手と一緒に揃ってエッジワークの練習をすることは、これまでも、これからも無いと思います。
二人の間にはこの時、同志としての強い共感と連帯感があったのでしょう。
完治していない怪我を抱えたユヅと、ソチオリンピックで惜しくも表彰台を逃してしまい、最後のオリンピックに夢を賭けたハビ。
順位はどうであれ、一緒にオリンピックの表彰台に立とうという、互いの意思確認でもあったと思います。
これを見て泣かないコーチがどこにいるのでしょうか。
きっとオーサーコーチの目にも涙が宿っていたに違いないと私は信じています。
画像はずっと前にたまたま動画で見かけた練習風景が素敵で、キャプチャーしてあったものです。
この時はまだクリケットクラブに移籍して間もない頃だと思いますが、オリンピック会場での二人揃ってのエッジワーク練習のイメージはこんな風だったのかなと。
これからは違う道を歩んで行く二人の未来が栄光と幸福に満ちたものでありますように。
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