2021年01月21日
演技に酔う
集英社新書プラス
宇都宮直子 スケートを語る 第16回 唯一無二 より一部抜粋させていただきました。
さて、私の見た「全日本選手権での羽生結弦」だが、別の次元で生きている人のようだった。
羽生は、
「自分が出場したことで、ちょっとでも何かの活力になれば。なんかの気持ちの変わるきっかけになれば」
と語っているが、私は、あらためて彼が唯一無二の選手なのを感じる。
羽生の発するエネルギーは、独特だ。
人の心を束にして、一瞬で持って行く。人々はそれに抗えないのである。
私は一昨年、心臓に不調を抱え、試合に行けなかった。ために、羽生を見るのは久しぶりだった。
演技中は、何も思えなかった。過去、タチアナ・タラソワコーチが話していた状態だったのだと思う。
曰く、
「私は完全に、羽生に魅了されています。まるで麻酔をかけられたように、身動きが取れないのです。
食い入るように見つめるしかない。私にとって、彼はそんな存在です」
「天と地と」の演技後、私は隣席に座る編集者に言った。
「今日はとても幸せ」
ほんとうに、そんな気分だった。羽生結弦のいるリンクのなんと豪華なことか。
ビッグハットは、新型コロナ感染症の対策が成されていた。個人的には、NHK杯(大阪)よりもきちんとしていた気がする。消毒液が至る所に置かれていた。
会場は集客が抑えられていたが、雰囲気がよかった。優しかったと思う。
登場するすべての選手に、惜しみない拍手が贈られた。バナー掲出は許されていなかったが、客席のあらゆるところで静かに、思いを込めて振られていた。
ショートの6分間練習の際、羽生が何かを短く言うのが聞こえた。
普段耳にする、あの柔らかい声ではなくて、腹の底から出たとでも言うのだろうか。野太い声だった。
フリーの6分間練習のときもそうだ。
手を顔に近づけて、指先を見ながら小さく笑った。それから何かを言った。野太い声ではなく、普段の声で、である。
私には聞き取れなかったが、編集者によれば、
「『鼻血が出た』って言っていませんでした?」
ということだった。
確認は取れていないが、そういう場面がたしかにあった。
私は会場で、いつもと同じようにメモを取った。長い歳月、ずっとそうしてきた。でも今回、初めてのこともした。
ノートに、私はこう綴っている。少し乱れた字で、
「高山さん、あなたの愛した羽生はこんなにも綺麗です」。
高山さんがもし羽生選手の『天と地と』を観たら、どんなことを語ったでしょうか。
美しいものを愛した高山さんは、宇都宮さんの隣で、「僕もとても幸せ」と微笑んだ、或いは泣いたに違いないと思いました。
私は羽生選手の演技を観る時、馥郁たるかおりを放ちながら、淡い金色の液体の中に細かい泡がいつまでも立ち上がってくる、最高のシャンパンを飲んだ時のような心地よい酔いを感じます。
演技が終わった後もしばらく酔いから覚めることができません。
身動きができなくなるという意味では同じです。
羽生選手のプログラムは、『天と地のレクイエム』、『生命』でもあるという『SEIMEI』、そして今回の『天と地と』のように、天上と地上、あの世とこの世、彼岸と此岸、生と死、を暗示するものが多いような気がします。
考えてみれば、最初の世界選手権のときの『ロミオとジュリエット』も生と死のドラマでした。
それが時として、羽生選手の中に儚さや無常観を感じさせるのかもしれません。
また平家物語の冒頭を思い出します。
羽生選手も、戦い続けた長い年月を経て、同じことを感じているのでしょうか。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 聖者必衰の理をあらはす
奢れる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし
猛きものも遂には滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ
今日は待ちわびていたNumber1019号の発売日です。
読むのが楽しみな記事が満載です。
ブック・イン・ブックも楽しみ!
最後までお読みいただきありがとうございました。
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